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最終更新情報: 5:17:53 pm on 8 August 2013 by 133.99.163.253
このページに関する議論 _ <tt><em>Tuesday, 16 November 2010, 3:05:21 am</em></tt> 「教育のゴールは「最終成果物」の様々なモデルによってさらに分かりにくいものになっています。社会はより多くの構成員(文化的遺伝子)を欲していますし、」 これを以下のようにすることにします → 教育のゴールは<font color="red">各々が考える</font>「最終成果<font color="red"><del>物</del></font>」の様々なモデルによってさらに分かりにくいものになっています。<font color="red">例えば、</font>社会はより多くの構成員(文化的遺伝子)を欲していますし、 -- sako _ <tt><em>Monday, 15 November 2010, 11:28:27 pm</em></tt> 重箱の隅みたいで恐縮ですが… "教育のゴールは「最終成果物」の様々なモデルによってさらに分かりにくいものになっています。社会はより多くの構成員(文化的遺伝子)を欲していますし" のところですが、 "教育のゴールは「最終成果」の様々なモデルによってさらに分かりにくいものになっています。最終成果として、社会はより多くの構成員(文化的遺伝子)を欲していますし" といった感じで補って次の文に繋ぐのはいかがでしょうか? --tetha _ とりあえず粗訳完了。 まだ斜字体などの処理をきちんとしていません。 言い回しや用語の統一はこれからですね。 ================================= !! あらゆる年齢の「子供たち」のためのパーソナルコンピューター アラン・ケイ ゼロックス パロアルト リサーチセンター これは Kay72a の転載です。原稿起こしは J.P.Tuttle、HTML化はMatthias Müller-Prove によって行われました。 次の"組版"規則が使用されます: - 写真の説明は[角かっこ]で行なう - 強調テキストは PDF 版中では下線で示されている -(読み取ることができない、あるいは欠落していて)確信が持てない部分のテキストは、もしある程度内容の推測がつくならば{中括弧}で示されています。一方、見当もつかない場合は_で示されています。 初出: the Proceedings of the ACM National Conference, Boston Aug. 1972 ! 要約 このノートでは、個人で携帯可能な情報操作機器の出現と、子供たちと大人たちがその利用によって受ける影響についての考察を行ないます。まるで空想科学小説のようだと思われるでしょうけれど、現在の世の中の小型化と低価格化の趨勢を思えば、ここで議論される多くの概念が近いうちに現実化することは、ほぼ確実なことです。 "世界を知るためには、それを自ら構築しなければならない" - パヴェーゼ 長年にわたり、技術を活用して社会問題を救おうとするのがひとつの伝統でした:「スラムが問題?ならば低コストの住宅を作りましょう!」「テレビを買う余裕がない?では欲しい時に買えるように、安価なものを作りましょう。たとえ支払いが済む前に壊れるとしてもね!」「子供たちは学んでいないし、教育コストも高すぎる?では、あなたの子供たちがテストに合格するのを保証する、教育メカを作りましょう!」 残念ながら、これらの「救い」のほとんどは、単にサビの上にペンキを塗っているだけです。最初の問題の原因は残されたままなのです。教育のゴールは、各々が考える「最終成果」の様々なモデルによってさらに分かりにくいものになっています。例えば、社会はより多くの構成員(文化的遺伝子)を欲していますし、親たちは(子供に)成功や、社会への適応、そして名声を求めたり、あるいは無関心だったりします。肝心の子供には訊ねられることはありません(子供は単に植物の種を蒔いて、それらが成長するのを見たいだけかもしれません)。教師たちはどうでしょう?彼らにも。もちろんさまざまな人がいて、見識ある人物(対話しようとしている相手が何か、状況を説明する現在の子供のモデルがどういうものかに関する、自分自身の良いモデルを持っている)も居れば、教える意欲に満ちた(でも才能に欠ける)ひとも居ますし、単なる仕事と割り切っているひと、あるいはより残念な場合として大学で単位を取りやすかったから教育に流れ着いてしまい、若い頃のツケを通して自分たちの運命をしぶしぶ認めているようなひとたちもいるのです。 技術者たちは、少なくともこの最下層のカテゴリは教育マシンによって置き換えられると指摘しています。技術者たちがあまり理解していないのは、実現されるものは(意欲的だが才能に欠ける)真ん中のカテゴリにぴったりはまるマシンがせいぜいであるということです。それではテクノロジーは最初のカテゴリの教師の属性をもつマシンを提供することができるでしょうか?おそらくは可能です。しかしまず最初に、そうすることが必要で望ましいゴールなのかを決めなければなりません。 この短いノートで考察したいものは、テクノロジーを駆使したメディアを通して強化することができると私たちが考えている学習過程の様々な側面についてです。それらの概念のほとんどは、子供について述べた、たくさんの理論にその起源を求めることができます。私たちはひとりの子供を「名詞」というよりも「動詞」として感じています。単なるモノではなく役者であり、単に大きさを拡大しただけのハトやラットでもありません。子供は目の前の問題に対処するために、自分を取り囲む環境のモデルを探そうとします。その理論は着想Aから次の着想Bに進むにはどうするかといった「実践的」なもので、厳密な論理の道筋をたどるといった「一貫した」ものではありません。子供へ影響を与えるときに、子供の中にあるモデルを教える側のモデルで置き換えてしまおうとするのではなく、子供自身の現在の考えのモードのなかに手がかりを置いていく方法を採りたいと思っているのです。 私たちはこのプロセスの中で、テクノロジーは本以上に必要とされる構成要素だとは思っていません。 しかしそれは、受動的なものではなく、(子供のように)能動的なより良い「本」をもたらしてくれることでしょう。その本は、テレビが持つような注意を惹きつける力を持ちながらも、その力をテレビ局側からではなく、子供自身によって制御できるようなものになるでしょう。それはピアノのようなものですが:(はい、これもテクノロジーの産物です)ツールであり、おもちゃであり、表現のメディアであり、果てしない喜びの源泉であり…そしてまた、他の物と同様に、無知なものの手にかかれば酷い苦役の元にもなるのです!! この新しいメディアは、災厄から"世界を救う"ことはありません。本と同様に、それは視野と問題の新しいセットをもたらすだけです。本は何世紀にもわたる人類の知識を包みこみ、全ての人々に届ける役割を果すことができました。おそらくアクティブメディアも思考と創造の興奮を伝えることができるでしょう! ============================== Abstract This note speculates about the emergence of personal, portable information manipulators and their effects when used by both children and adults. Although it should be read as science fiction, current trends in miniaturization and price reduction almost guarantee that many of the notions discussed will actually happen in the near future. "To know the world one must construct it." -Pavese For many years it has been a tradition to attempt to cure our society's ills through technology: "You have slums? Let's build low-cost housing!" "You can't afford that TV? We'll build a cheaper one and you can buy it on time, even though it will break before you've finished paying for it!" "Your kids aren't learning and education is too expensive? We'll build you a teaching machine which will guarantee your kids will pass tests!" Unfortunately, most of these "cures" are no more than paint over rust; the sources of the initial problems still remain. Education goals are even more obscured by the diverse models of the "end product" which exist: the society wants more members of the society (cultural genetics), the parents may want success, conformity, fame, or don't care; the kid is not asked (he may just want to plant beans and watch them come up). What about the teachers? They, of course, range from enlightened human beings (who have a good model of themselves, what it is that they are trying to communicate, and what the child's current model of the situation is), to those well-intentioned people who would like to teach (but lack talent), to those who take it as a job, or worse, drift into it because "ed" was the easiest way through college and now begrudge their fate through their young charges. Technologists point out that at least the bottom categories would be eliminated through a teaching machine. What they seldom understand is that what is delivered is a box which at best squarely fits the middle category: well intentioned but lacking talent! Can technology ever deliver a box with the attributes of the first category of teacher? Maybe. But first, it must decide that it is a necessary and desirable goal to do so. What we would like to do in this brief note is to discuss some aspects of the learning process which we feel can be augmented through technological media. Most of the notions have at their root a number of theories about the child. We feel that a child is a "verb" rather than a "noun", an actor rather than an object; he is not a scaled-up pigeon or rat; he is trying to acquire a model of his surrounding environment in order to deal with it; his theories are "practical" notions of how to get from idea A to idea B rather than "consistent" branches of formal logic, etc. We would like to hook into his current modes of thought in order to influence him rather than just trying to replace his model with one of our own. We do not feel that technology is a necessary constituent for this process any more than is the book. It may, however, provide us with a better "book", one which is active (like the child) rather than passive. It may be something with the attention grabbing powers of TV, but controllable by the child rather than the networks. It can be like a piano: (a product of technology, yes), but one which can be a tool, a toy, a medium of expression, a source of unending pleasure and delight...and, as with most gadgets in unenlightened hands, a terrible drudge!! This new medium will not "save the world" from disaster. Just as with the book, it brings a new set of horizons and a new set of problems. The book did, however, allow centuries of human knowledge to be encapsulated and transmitted to everybody; perhaps an active medium can also convey some of the excitement of thought and creation! ---- *PCCAA2*
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